2019年02月28日

社会と恐怖

札幌行きの飛行機の中でこの記事を書いています


この飛行機が落ちたら僕は死ぬ

この車が激突したら僕は死ぬ
死にたくない
そうならないように社会は配慮し、僕たちが安全・安定・便利な生活を送れるよう、日々進歩しています

社会は僕たちの日常から死の危険を遠ざけ、自分が死ぬという事実を直視しなくても生きていくことができます
過去、その日一日を生き延びることに必死だった人間の日常は死の危険に満ちていたことでしょう
それでは困るってんで、人間は連帯し協力し社会を成熟させることでその課題をクリアしてきました

社会
それは人類の素晴らしい発明だけれども
でも、ここに大きな問題もあると僕は感じています

あの時、石垣から転げ落ちていたら、僕は死んでいた
あの時、彼が引き金を引いていたら、僕は死んでいた
あの時、熊と出会っていたら僕は死んでいた
あの時、僕は常に死と隣り合わせであることを知りました
僕はいつだってあっけなく死ぬかもしれない
この「死への恐怖」を直視することが僕の生きる土台になっています

いつ死ぬか知れない
だからこそ生きていることは素晴らしいし
この一瞬を本気で生きようと思える
そこに覚悟と希望があるのです
そこに生きる実感があるのです
だからこの恐怖を見ぬふりをして生きていくことはできません

この恐怖は人間が本来持っている普遍的で原初的な感情であるように感じます
なぜなら、人は誰だって死ぬのだから
その事実を前提にして、生は始まるのだと思います

社会とは、安全・安定・便利な生活によってこの事実を隠し、原初的な恐怖を人間から切り離す営みでもあります
そうして社会により人間は本来持つべき感情を忘れてゆく
ある意味では社会によって人間は人間でなくなるのです
僕はここにまた別の恐怖を感じます

社会から一歩離れた瞬間、死はその恐ろしい姿を露わにし、容赦なく襲ってきます
それが「この世界の真実」なのだという抗うことのできない残酷な現実とともに

その恐怖・その現実は、社会が作る安全や安定などは幻想なのではないかとすら感じられるぐらいの圧倒的な説得力・現実感を持って迫ってきます
社会はいつ壊れるかもしれません
そんな社会に、そんな社会が作り出す安全・安定・便利に、身も心も全て委ねてもよいものなのでしょうか
このまま社会が発展していき、それを盲信することで、人間は何か大きなものを失うのではないでしょうか
いや、もう失っているかもしれない

やばくね?

僕たちは社会なくしては生きていけない
しかし、社会は人間を人間でないものにする
なんという矛盾
涙が出てきます
でも、泣いてても仕方がない
この矛盾に対して、どう向き合っていけば良いのか
考えなければ

僕たちは社会の下に生き、社会に無条件に従順に従う存在ではなく、社会を自分の中に持っているのだと意識することが必要なのではなかろか
自分の中には、人間が本来持っている原初的な感情と社会性を持った自分が共存している
自分の人格とは、その両者のブレンドである
そんな感覚が必要なのではなかろか

僕たち音楽や芸術分野に携わる者にとっては
その恐怖や、翻って、生きることは素晴らしいという感覚を、作品によって社会に伝えていくことで、人間が人間であり続けるための助けになるような、人間が人間であることを忘れずにいられるような仕事をすることがその役割の一つなのではなかろか
そのためには、人間とは何か、生きるとは何か、考え、感じ続けねばならぬ

そう、思います


だから
今日も笛を吹き散らかす!

ウケる


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