2014年10月27日

ピダハンを踏まえて…(長文)

昨日の記事を踏まえて


なぜ僕がピダハンたちと同じように、全ては一つであると感じ、過去も未来でもない今にしあわせを見出したかというと…


とても長くなりますが、この機会に書いておきます


興味のない人はスルーしてください




小学生高学年か中学生だったかのある日


夜中になんとなくNHKを観ていました


なぜそんなものを観ていたのか今となっては全くわからないのだけれど、今でも夜中にNHKをつけるとやっている、世界の美しい風景がクラシック音楽かなんかに乗せて延々と流される番組を観ていました


ぼけーっと観ていたら、その風景のあまりの美しさに、自然と涙が溢れてきました


うわうわうわ、なんなんだこの涙は


とめどなく涙があふれてきます


当時の僕は景色や自然なんかに興味のある人間ではなかったので、自分自身大変おどろきました



でもそんな価値観を吹き飛ばすくらい、僕にとってはテレビ画面に映る風景が衝撃的に美しかったのです


木々が風に揺られ、草花の緑が生き生きとしていて、川が流れて、空は青くて、、、


春のロシアでした



そうしているうちに、この涙が何なのか、わかってきました


この美しい風景、美しい地球


本当に素晴らしい


この美しい風景、素晴らしい地球に、この木々や草や水と同じように存在している自分というのも、なんて素晴らしい存在なのだろう!


存在しているもの全てが、なんて素晴らしいんだろう!


そんなことを、ビビビッと実感として理解したのです


全てはイコールというか、宇宙と自分の存在が繋がったというか


この美しい世界と自分は、つながってんじゃん!


この世界に存在している美しいものと自分はおんなじじゃん!


自分は存在していていいんだ!


ていうか木だって人だって動物だってゴキブリだって、みんなおんなじじゃん!


森羅万象、最高!


そんな感じ



ありがとう



こんな素晴らしい世界に存在させてもらえて、本当にありがとう


こんな素晴らしい世界に存在してくれて、本当にありがとう


あらゆるものへ


感謝しかなかった




それと同時に、自分はこの巨大な美しさの中のほんの一部でしかないとも思いました


たった数十年で死んでしまう、ちっぽけではかない存在


一人では何もできないということ、自分は一人で存在しているのではない


そんな思いも自然とわいてきました




こうして、自分は全体であると同時に一部でもある、という感覚を得ました


自分の存在がどういうものなのか、アタマではなく感覚で理解できました


とても暖かい心で、しばらく感謝と尊敬と誇りの涙を流していたのでした




当時僕は色々悩みもあったけど、そんなことはどうでもよくなっていました


この感覚は今でも持ち続けているけど、文字通り心が洗われるというか


このとき僕の心のチャンネルが変わったような気がします





年月は流れて、僕は音楽家になりました


日々、色々な人と色々な音楽を演奏しています


そんななか、ごくまれにあります



完璧に最高のライブ



何が完璧かというと


自分が完全に音に集中できたとき、自分の感覚は肉体を越えて音そのものになります


音が自分になるわけですから、音の響いている空間が自分になるのです


そうすると、その空間の中にいる人たち、物たちがこの音の振動をどう受け取っているのかがわかるのです


もちろんそこまで集中できるということは気持ち良い音を出してますから、この空間にいる人たちはみんな気持ち良くなっています


彼らの魂も肉体を越え、みんなの魂が集まって「気持ちいい魂のカタマリ」になって、そのへんに漂っているのです


僕の魂ももちろんその中にあります



全てが一体になるのです



僕があのとき感じた、全ては一体である、という感覚と共通しています


この気持ち良さは、お金も経歴も実績も人種も性別も思想も関係ない、あらゆる境界・隔たりから解き放たれて、未来・過去に属することからは全く干渉されません


ただ、今、気持ち良い


それだけです


それも、自分だけでなくその空間にいるみんなが、その気持ち良さを共有しているのです


全てが満たされるこの感じ


僕は、これこそがしあわせだと思うのです




今の社会のシステムは人間にこのしあわせを感じにくくさせるようになっています


どうしても将来の不安などがつきまといます


ある程度は仕方のないことなのかもしれないけれど


でも、より良くすることは出来るはず



食糧だって、全世界の人口に行きわたるだけの穀物生産量は充分にあると聞く


エネルギーだって、もっと効率よく運用できる技術はあるはず


教育だって(こないだノーベル平和賞をとった女性が国連で教育について演説した時に、そこにいた各国の偉いひとたちはみんな盛大な拍手していた)、もっと行き届かせることが出来るはず


エボラ出血熱だって、経済を優先しなければ感染も拡大しなかったはず


そのへん、やろうよ


本気でやってこうよ


できるでしょ?


お金を優先しないでさー、しあわせを、命を優先してこうよ




全てが競争で、良悪、優劣、善悪、勝負、など、社会的な意味を貼り付けて、良いもの・勝者にお金と価値を与える


誰しも不安な状態は嫌なので、自然とこのシステムに巻き込まれていって「より良い」「より優れた」「より強い」ものになって、お金を勝ち取ろうとする


でもそれは、お金を獲得するための「良さ」であり「強さ」であったりするから、全てが一体であるというしあわせの前では全く意味がない


そもそも比較することがナンセンスだと思います


現在のシステムはどうしても人と人を分離し、隔たりを意識させるように出来ているのです




でも、僕もこう言ってはいるけど


数年前にはこのシステムに巻き込まれていた頃がありました


日々音楽の仕事をしていると、やっぱり考えるわけですよ


お金のことはもちろん、評価とか、実績とか、そういうことを



子供のころ味わったあのしあわせの感覚も身体から抜けてしまっていたのかもしれない


仕事として音楽をする難しさですね



でもあるとき、家で木琴の練習をしていたら


本当に心から集中できて、木琴と自分だけの空間が作れて、もう他には何もいらない、この時間があればそれだけでしあわせ、という感覚になりました


ハッと気づいたね


コレだ、と


おれはこの瞬間のために音楽をやっているんだ、と


音楽をはじめた頃はいつもこうだったじゃあないか、と


音楽は今にしかないのに、何未来を見とるのか、と


おれは何をやっていたんだ、と





それから数週間後?数か月後?、この感覚を忘れないように笛一本ひとり旅に出ました


知らない街で知らない人の中で透明人間のようになって、笛と心から向き合って音に集中したら何が見えてくるか、知りたかったのです


結果、さっき言ってた完璧に最高なライブの状態を味わいました


この状態を言語化できたのも、この旅でじっくり反芻できたことが大きいです


立ち止まる人も立ち止まらない人もいたけど、音の響く空間に入った人は、歩いて通り過ぎる数十秒〜数分の間、みんな気持ち良く音を受け取っていることがわかりました


魂のカタマリが漂いました


評価や実績や名声じゃないんです


理屈じゃないんです


未来でも過去でもないんです


今、感じている響きがただ気持ち良いからなんです




美しい景色も、ただそれだけで気持ち良いものです


それと同じ存在でありこの素晴らしい宇宙の一部である自分も、(音楽の時間だけでなく、いつだって)今を生きていれば気持ち良くいられるし


今気持ち良くいればまわりの人にも気持ち良さを与えられると思うし(逆に言うと、まわりの人を気持ち良くするには、自分が今気持ち良くいることが最も近道だと思う)



その気持ち良さが、しあわせというものだと思うのです



音楽をやっていたこと、一人旅に出たことが、僕のこのしあわせ観を決定的にしました


あの時木琴を練習しなかったら、あの時一人旅に行けてなかったら、どうなっていたことか…


この価値観はこれから変わるのかわからないけど、音楽にはいつも救われて本当に感謝しかないYO





生きているからには、しあわせを感じる時間は長いにこしたことはないと思います


というか、生きる目的とは「しあわせでいること」だと思っています(「しあわせになること」ではない)


そんな、今感じる気持ち良さ=しあわせ、を毎瞬シンプルに選択していくだけだし、そうしやすい社会に少しでもなっていったらと願ってやみません




長くなってごめんね


僕の人生なんて、こんな感じです


最後まで読んでくださった方、ありがとうございます


読んでない人も、ありがとうございます




自分が楽しみ、みんなも楽しい、そうありたいネ


みんなが笑顔でありますように




だったらこんなつまらんこと長々と書いてないで


もっとおもろい文章書けや


そう言われたならば、返す言葉もございません


己の文才の無さにただ土下座して許しを乞うよりほかない、吉宗であった
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